昔話の今を撮る

だいだらぼう

地図で涸沼を上から眺めてみると西側の「親沢の鼻」と「弁天の鼻」のせり出しがあるので、括れているように見えます。その形は、「サツマイモ」や幻の蛇「つちのこ」に似ています。そして、見かたによっては人の「足跡」のようでもあります。

大きな足跡は「巨人」を連想させます。そこで、思い出されるのが「ダイダラボウ」です。でーだらぼっち、だいたらぼっち、と呼び方は様々ですが「巨人」の伝承は日本各地にあります。

涸沼はダイダラボウの足跡に水が流れ込んで出来た。と、おぼろげですが、聞いた記憶がありました。

ところが、ダイダラボウの話を書籍などで調べてみると、千波湖や朝坊山のことはあっても、「涸沼」が見つかりません。

インターネットで検索してようやく、「筑波山に腰をかけ、霞ヶ浦の水を手ですくって飲み、踏み出した足あとが涸沼になった」の一文をみつけました。

ただ、出版物に記述がないのを不思議に思い、更に調べると、筑波山と富士山にまつわる話をみつけました。

 

ある秋晴れの日、ダイダラボウは立沢の里(守谷市)で辺りを眺めていました。

澄み切った景色の彼方に富士山が見えます。そして、こちらには「同じ姿」の筑波山がそびえています。「さてもよく似た山の姿かな」と見ほれていたダイダラボウでしたが、2本の丈夫な太縄と大きく長い棒を持ち出しました。そして、片方の綱を富士山に、もう一方を筑波山にかけて、棒を天秤にしてかつぎあげようとしたそうです。すると、富士山はびくとも動かなかったのですが、筑波山は動き、その反動で筑波山の山頂が二つに割れてしまったそうです。もともとは、富士山と同じ形をしていた筑波山でしたが、今の形になったのはダイダラボウがかつぎあげた事が原因だそうです。

この話のダイダラボウの大きさは規格外です。朝坊山を動かしたり、千波湖をつくった伝承の「巨人」が虫のように小さく感じます。

ここまで、桁違いの大きさならば「涸沼」がダイダラボウの足跡であってもなんら不思議はありません…。

だいだらぼう

涸沼に接する市町村は海沿いから大洗町、鉾田市、そして、茨城町となります。

ここからは、これら3つ地域に伝わる涸沼周辺の昔話を紹介いたします。

織り姫塚 水戸黄門 水底探訪   

涸沼川のほとりに 織姫塚(呼塚よばりづか)という大きな岩がありました。

織姫塚

岩の下は深い淵で、機を織る姫が住んでいて、凪の日に水面に耳をあてると機を織る音が聞こえたそうです。

ある日、徳川光圀公(水戸黄門)が和田平助正勝(助さん)と水底の姫を訪ねるため河に入りました。

そして、水底の大きな門の扉を叩くと美しい姫が出てきました。

ところが、姫曰く「貴方たちの来る所ではない。長く居ると命はない。」と追い返されたそうです。仕方なく、門を出ようとすると、扉に大きなアワビが張り付いて開くことが出来なくなっていました。助さんがアワビを刀で突き刺して、なんとか門を出ることができました。ホッとしたのも束の間、今度は川底のワカメが2人を絡め包み身動きがとれなくなっていました。

助さんが再びワカメを刀で切り払い、何とか岸にたどり着いたそうです。

織姫塚

また、終戦直後の頃、この伝承に興味を持った人物が潜水夫を織姫塚付近に潜らせたそうです。ところが、いくら潜っても川底が見えず、恐ろしくなった潜水夫は途中で潜るのをあきらめてしまったとのことです。

 

織姫塚は那珂川との合流点にほど近い涸沼川と云われています。

近くには水戸八景「巌船の夕照」があり、2本の川の交わりを見る事ができます。

水戸八景「巌船の夕照」

また、赤いアーチが目を引く「海門橋」に隣接する「巌船 一里塚ロードパーク」からは川辺(那珂川)におりられ、広大な太平洋をのぞむことも出来ます。

参考にした文献によると、「巌船の夕照」下の川辺のようです。

★ただ、いかにも深そうな淵のようですが、織姫塚らしい岩は見当たりませんでした。また、この地形だと舟にでも乗らない限り、伝承のように水面に耳をあてて機織りの音を聞く事はできません。

当時のこの付近は、舟荷が行き交う海運拠点でした。港町・漁師町であった事も手伝い、歓楽街が栄えていたようです。この徳川光圀公の話の由来は、盛り場からの誘いを人々に戒めるために語られるようになったとも伝えられています。

矢神神社 〜ヤマトタケルの痕跡〜

 

鉾田市箕輪(旧旭村)を通る県道16号線から涸沼を背にして南に細い路地を入ります。数百メートル進むと小高い林の中に「矢神神社」があります。

矢神神社

小さくひっそり地域に溶け込んでいて、古式ゆかしい「村の鎮守の神様」といった雰囲気です。

古びた石の階段を上ると社のそばには石碑があり、この神社の由来が刻まれています。

矢神神社

碑文によると

ヤマトタケルが東征のとき、鹿島市角折(旧大野村)から船に乗り、鉾田市上釜付近に上陸したそうです。その後、内陸に進んでこの涸沼の南岸でしばらく休養したとのことです。そして、出発するときに、石弩<セキド>(矢を放つ石の弓)を村人に授けました。

矢神神社

村人がそれを奉じて、小さな祠を建てたのがこの神社の云われのようです。

矢神神社

ヤマトタケルの漢字表記はさまざまで、日本書記は「日本武尊」古事記では「倭建命」また、常陸国風土記には「倭武天皇」と在ります。記紀に登場することで主に知られる古代の皇族です。三種の神器の一つ草「薙剣」を帯刀し、諸国平定に尽力した伝説があります。古事記と日本書紀では東征のルートや滞在地が異なります。これには諸説在りますが、涸沼近くのこの地に立ち寄った言い伝えもあったようです。

 

大杉神社 〜あんばまつりのルーツ〜

涸沼の北東、水戸八景の一つ「広浦の秋月」で知られる「広浦公園」があります。

広浦公園

その隣には「広浦漁港」があり、早朝から漁にでる舟が行き交います。ちょうど公園と漁港に挟まれるような形で岸辺に祀られた神社が「大杉神社」です。

大杉神社

涸沼岸のあちこちには、小さな社が点在していますが、その中でも大きい神社です。

また、毎年7月下旬に奉納される「あんばまつり」のご神体でもあります。

この神体は、言い伝えによると「飛んで戻った天狗面」だそうです。

江戸時代・天保年間、下石崎地方に天然痘が流行した時の事でした。

大杉神社

ある日、広浦の宿に山武士が立ち寄り、天然痘には桜川村の大杉神社を信仰するとよいと聞かされました。そこで、桜川村阿波の大杉神社へご神体の天狗の面を借りて、涸沼のほとりお祀りしたそうです。しばらくの後、信仰の効果があってか、天然痘で苦しむ人々はいなくなったとのことです。広浦に祀られた桜川村の天狗の面は、役目を終えて惜しまれながらも、阿波の本社に返されました。ところがある日、返したはずの天狗の面が空を飛び戻ってきたそうです。そこで、そのまま涸沼に大杉神社として祀られるようになったと伝えられています。

そして、天然痘を退け、人々の健康を守ってくれた事に感謝する祭が「あんばさま」で親しまれている「あんばまつり」なのだそうです。

伝承には、阿波の本社に返した「天狗の面が空を飛んで戻ってきた」と、ありました。「まさか、そんなことが」誰もが思う内容です。ただ、あり得ないの一言で全て否定してしまうのもどうでしょうか。事の真意はどうあれ、伝わっているのは間違いないのですから。例えば、こんな解釈もできます。急いでどこかへ行く事を「すっ飛んで行く」とも言います。何かの理由で急いで運んだ事が転じて「空を飛ぶ」と語り継がれるようになったのもしれません。

この大杉神社に伝わる建立の伝承もそうですが、昔からの言い伝えなどを知ると、首をかしげたくなる表現が多々あります。これらの謎を調べて自分なりに想像、解釈することは、その話が今まで残ってきた理由に繋がるかもしれません。そして、それが伝承を知る楽しみの一つです。ただ、冒頭で紹介した「ダイダラボウ」の巨大さは想像と解釈の域を超えすぎている気がします。

 

参考文献

  • 茨城の史跡と伝説
  • 茨城の伝説(茨城民族学会編)
  • 茨城県の民話と伝説(下) 藤田 稔
  • いばらきの祭と民族芸能
  • アンバ大杉信仰 大島建彦
  • 大洗歴史漫歩 大久保景明

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